さて、4月です。もう終わりそうですが。
春は出会いと別れの季節ということで、新しい先生と出会ったり、あるいは何らかの事情で「先生」と呼ばれる立場になってしまった人も多いのではないかと思います。
そんな時期なので、私のはてなブックマークの中から、「教えたり、教えられたりするときに大切なこと」を掘り返しつつ思い出そうという日記。
4つほど、ブクマしといてよかったなあ、という記事がありましたので、それを紹介します。
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まずはこの記事。
「盗んで覚えろ」では部下が育たない理由 「褒める」とは、どういうことか|ハーバードの「ベストティチャー」が教える 自信は「この瞬間」に生まれる|ダイヤモンド・オンライン
普通に経験を通して身につけようとしたら何十年、何百年とかかることを数ヵ月、数年で圧縮して伝える。これが教育です。
人を育てる時に一番大切なのは「褒めること」です。たとえば、部下が仕上げてきた仕事が自分の理想からほど遠いものであっても、片目をつぶりましょう。自分が求めている方向に一番近い部分を、まずは褒めてやる。
それを繰り返していくと、最初は5割くらいの出来だったものが5割5分になり、最終的には7〜8割くらいの出来になっていきます。
褒める時に気をつけたいのは、具体的に褒めること。ただ「いいね」「やるじゃん」と言うだけではダメ。なぜなら、褒めるとは、価値観を伝えることだからです。
具体的に褒めることで、相手に「こちらの方向で合っているよ」「その部分を伸ばせばいいんだよ」というメッセージが伝わるのです。つまり、教える側と教えられる側で一つの価値観が共有される。逆に価値観が共有されていない状態では、育てられる側は何をどうしていいのかわかりません。
また、否定では価値観が伝わりません。「これじゃ、ダメ」と言われたところで、次にどうすればいいのかわからないのです。
「普通に経験を通して身につけようとしたら何十年、何百年とかかることを数ヵ月、数年で圧縮して伝える。これが教育です。」
この言葉は非常に大切ですね。
確かに「長い時間の経験を積まないと理解できないこと」というのはあるのですが、それだけでは「人類の進歩」というものはあり得なかったわけで。
で、実際にフェイス・トゥ・フェイスな状況で「だれかに教える」という状況だと、「理論」「メソッド」をただ詰め込むだけじゃなく、そういったものを「正しく使えているか見届ける」だとか、「正しく使えるよう誘導する」ことが必要になってくるわけです。
どのような行動・考え方・理論…を、どのような状況で使っていけばいいのか、その「価値観」を共有することが大切になります。
そのために最適なツールが「褒めること」です。
具体的に褒めることで、何が正しい方向なのか伝えていくことで、価値観を共有するのが大切です。
あれはダメ、これもダメ…という教え方では、「じゃあどうすればいいんだよ!」となってしまいますからね。やる気もなくなってしまいますし。
また、じゃあ具体的に叱ればいいのではないか、と思ってしまう(よくやってしまう)のですが、
「どうして○○しないの!?」
というのは指導ではなく詰問です。そのつもりがなくても、そうなってしまいます。
教える側としては「何をどう褒めるか」が非常に大切ですし、教わる側としては「先生が何を求めていて、どのような価値観を持っているのか」を感じ取っていくことが大切ですね。
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1のような内容を、教わる立場から考えるとどういうことが大切か。
「指導の理屈を理解する」というと「言外の意味を読み取れ/文脈を読め」と勘違いする方もいますが、そうではなく、なぜ、そのような指摘/質問が出るに至ったのかの考え方を理解するということです。
素朴に「先生/先輩のご指摘は理解できるのですが、なぜ、そうお考えなのかがわかりません。ご説明いただけますか?」と尋ねれば良いです。大学の教員で研究室を持っているならば、だいたいの方が説明してくれると思います(もちろん、「〜の本を読んで自分で勉強しろ!」というのも立派な説明です)。トラブルシューティングや試行錯誤の状態であっても、考え方を尋ねるのは有用です。先輩や教員は何かしらの経験に基づいたそれなりに効率の良い考え方ややり方を持っているはずです。
具体的には以下の点に注意して考え方を追ってください。
・何を基準として「良い」「悪い」と判断しているのか?
・その基準がどうして適切なのか?
・その基準において「良い」もの/状態を得るためのやり方はなにか?
自分が失敗したときや間違ったときに説教されるのは誰もが嫌いなことですが、「なぜ、そのように説教されるのか」という理屈に着目して聞くならば、それは自分にとってプラスになります。それが理不尽な説教であったとしても、「理屈が通らない説教というのはこういうものか」という悪い例として利用できます。
「価値観の共有」が上手くいかないときに、教わる側がすべきことについて。
褒められるとただ舞い上がってみたり、叱られてはただ「なんとかその場をやり過ごす」ことばかり考えてしまったりしがちな私たちですが、大切なのは、それを通してどんな「価値観」を伝えたいかを読み取ることなんですよね。
教える方も人間なので、完璧ということはあり得ないので、どうしてもなかなか「価値観」を伝えきれないことが多いんですよね。
なので、教わる側も「価値観の共有」に努めると、非常に効率よく多くのことを学ぶことができます。
…そして、いい生徒は、このプロセスを通して教師を「逆教育」する。教える側に立つときは、これを意識しとくといいです。
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では何故、「価値観の共有」が上手くいかないのか。
教える側の「あるある」はこんな感じ。
「教える経験の少ない人」が、他人に何かを教えるときに、ついつい、陥ってしまう3つの罠(中原淳) - 個人 - Yahoo!ニュース
「教えること」にあまり経験のない人が、他人に何かを教えなければならないときに、最も陥りやすい罠は、「詰め込み」「バラバラ」「一方向」の3つです。
この3つは独立なようでいて、実は、相互に密接に関連しています。
最大の問題は、
「限られた時間の中で、私は、あなたに、"何"を、最も伝えなければならないのか?」
この問いに対する答えが、見出し切れていないということです。
「もったいない」「あとですね・・・」「話を元に戻しますと」が脳裏に浮かんだら、要注意かもしれませんよ。
要するに、
「伝えたいことをしっかり絞って、あとは全部捨てるくらいでないといけない」
ということですね。
何かを教える立場に立つときは、こういった心持ちでいかないとまず「何言ってんだかわからない人」になってしまいますし、教わる立場に立つときには、相手が教えたい「軸」「価値観」をしっかり追っていく必要がありますね。
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それと同じくらい大切なのは、「その価値観、本当に正しいの?」というところをしっかり考えること。
いくら「価値観」がしっかり軸の通ったものでも、その軸が間違ってたらしょうもないので。
大学の体育の授業で学んだ、人の自発的な育て方 : タイム・コンサルタントの日誌から
このトレーニング・クラスは、わたしがそれまで受けた中で別格、いや、次元が違うくらい、まともな体育の授業だった。まず、教師の説明が科学的だった。トレーニングの内容は、小さなダンベル(重量がkgで表示されている)をつかったウェイト・トレーニングに始まり、ついで全身を使うサーキット・トレーニングが加わる。学生は各人、硬い紙のスコアカードが渡される。それに毎回、自分のスコアを記録して行く。たとえば右手にダンベルを持ち、右肩の上において、肘を伸ばして持ち上げる。その単純な、要素的な運動を、何回やれるか記入していく。
教師のインストラクションは、こうだった。「もし君らが、8回未満しかその運動ができなかったら、それは負荷が重すぎるのだ。そのときは、1kg軽いウェイトを使え。また、逆に16回以上その運動ができた場合、負荷が軽すぎる。だから1kg重いウェイトを次回はトライすること。重すぎるウェイトで無理を続けてりしてはいけない。それは筋肉にむしろ障害を与える。軽すぎる負荷では、もちろん筋力の向上にはつながらない。」 そしてまた、こうも言った。「こうしたトレーニングのための運動は、週1回では足りないことが統計で明らかになっている。7日たつと、獲得された筋力がもとに戻ってしまうのだ。週2回やれば、筋力は維持される。だから本校の体育の授業は教養過程の間、週2回に設定している。」
そして極め付けは、これだった。「諸君は別に他人と比べる必要はない。各人の運動能力はそれぞれ別で、個性があるのだ。だから、過去の自分とだけ比較して、向上を確認すればいい。」
実際、毎週同じトレーニングを続けて行くうちに、少しずつだが自分のスコアは着実に上がって行った。それは、とても喜ばしいことだった。自分にも運動面で向上する余地が、あるいは可能性があるのだ。トレーニング内容は少しずつ組み合わせで複雑になって行ったが、プログラムが緻密に設計されているため、ついて行くことができた。何より、他人と比較されて、劣等感を感じずに済んだ。それは、生まれてはじめての事だった。
そして逆に、それまで10年間受けてきた体育は、いったいなんだったのか、と思わざるを得なかった。運動部の、ほとんどプログラムも設計もない、ただむやみなジャンプやダッシュや筋肉運動の数々。そして体力をつけるため「体をいじめる」という、不可思議な観念。それは単なる精神主義の産物ではないのか。こうしてスコアに記録して数値化し、それを集めて分析し、さらにプログラムの設計を向上させる、という科学的発想はどこにも見られなかった。だが、あきらかに体育は科学の対象なのだ。目から鱗が落ちる経験とは、まさにこのことだった。
間違った「価値観の軸」が形成されやすい考え方が、「競争のための競争」と「精神以外に裏付けのない精神論」だと私は思ってるんですよね。
そういった価値観の元で学んでいっても、最終的には伸びなくなる。ほとんどの人がだいたい最初に折れるか途中で折れるかで、最終的にごく少数のモンスターが生まれる(というか虐待が再生産される)くらいだ。
人に教えるべき、伝えるべき「価値観」というのは、「科学的」でなければならないのかもしれません。
科学的…つまり、客観的で、再現性があって、論理的整合性があって…そういった性質をもったものを「価値観」の根底に置いておかないと、どうしても教える側の「ひとりよがり」で終わってしまいがちです。
教わる側の心得としては、教えられた内容について、それがどのような「科学」にもとづいているのかを読み取っていく姿勢が大切です。
ただ教えられた内容についてハイハイ言いながら従っているだけだと、「競争(優越ゲームなど)」や「精神論」くらいしか残らないかもしれないよ。